私:
「祈る」という事について少し考えたい。
話があちこちに飛びますがお願いします。
古来、人は、自分ではどうしようもない苦境に陥った時
「誰か助けて」という気持ちになったのではないかと思います。
周りに助けてくれるもの(人や物理的な手段)があれば、
まずそちらに働きかけるでしょう。
ですが、それがない場合は「神・仏」などに祈ったのでしょうかね?
ChatGDP:
話は飛んでいません。筋は通っています。
結論から言うと、その理解は大きく外れていません。
ただし、少し補足と修正が要ります。
まず前提として、古代の人にとって「神・仏」は、
現代人が思うほど「超自然で遠い存在」ではありませんでした。
1. 「誰か助けて」という感情は、人間の基本反応
これはほぼ間違いありません。
人は、
-
危険
-
病気
-
飢え
-
天災
など、自分の力が及ばない状況に置かれると、脳が「外部の力」を探します。
これは本能に近い反応です。
周囲に
・家族
・仲間
・道具
・知識
があれば、まずそれを使う。
それが尽きたとき、「それ以外の力」に向かう。
ここまでは、現代でも同じです。
2. 古代の「神・仏」は、今でいう「世界の仕組み」
古代の人は、
-
なぜ雷が落ちるのか
-
なぜ疫病が流行るのか
-
なぜ作物が実る年と実らない年があるのか
を説明する科学を持っていません。
そこで、
-
雷を起こす存在
-
病をもたらす存在
-
豊穣を司る存在
として「神」が生まれました。
ここで重要なのは、
神は「助けてくれる人格者」というより、
「自然現象を動かす力」だったという点です。
祈りは、
神様にお願いする
ではなく
世界の動きと折り合いをつけようとする行為
に近かった。
3. 「祈る」は、行動が尽きた後の“最後の手段”ではない
ここは少し修正点です。
現代人は
「努力 → それでもダメなら祈る」
という順番を思い浮かべがちですが、
古代では、行動と祈りはセットでした。
-
種をまく → 豊穣の神に祈る
-
薬草を使う → 病の神に祈る
-
戦う → 勝利の神に祈る
つまり祈りは、
自分ができることをやったうえで、
それ以外の不確実さを引き受けるための「手続き」
でした。
4. 「祈り」は現実逃避ではなく、現実整理の手段
祈りには、非常に現実的な役割があります。
-
どうにもならない事を「どうにもならない」と認める
-
責任を自分一人で背負わない
-
心を落ち着かせ、次の行動を選びやすくする
これは、現代でいう
-
カウンセリング
-
マインドフルネス
-
認知の整理
にかなり近い働きです。
神の実在とは別に、祈りという行為自体が、心理的に合理的だった。
5. 仏教の場合は少し性格が違う
仏教では本来、
-
仏は「助けてくれる神」ではない
-
苦しみの構造を理解する存在
です。
初期仏教では、
祈っても苦は消えない
苦が生まれる仕組みを知れ
という立場でした。
ただし、民衆レベルでは、
-
観音に祈る
-
阿弥陀にすがる
という形に変化していきます。
これは生活の厳しさに耐えるための実用化です。
6. 結論として
あなたの考えは、
-
人はまず現実の手段を使う
-
それが尽きたとき「誰か助けて」と思う
-
その延長線上に祈りがある
という点で、歴史的にも心理学的にも妥当です。
ただし祈りは、
-
単なる絶望の産物ではなく
-
世界を理解し、心を保つための知恵
として、かなり早い段階から人間社会に組み込まれていました。
もし次に進むなら、
「祈りは本当に“誰かに向けた行為”なのか」
という問いが出てきます。
そこは、宗教と心理の分かれ目になります。
私:
ここから、話があちこちに飛びます。
古代、「世界の仕組み」を説明するのに
神々を頭に浮かべたのは、わかります。
ギリシャやメソポタミア・インドの神々はそうでした。
ユダヤ教でも、初期は戦いの神に祈っていました。
しかし、イエスの復活神話以降、
キリスト教では「原罪・救い」という考えが生まれ、
イエスの「奇跡的な癒し」の話も出てきます。
後には「マリア信仰・ヨゼフ信仰」も出てきます。
一般の人々は、助けてくれる存在として
「ヒンズーの神々・観音菩薩・地蔵菩薩」に、
また「先祖や亡くなった親たち」にも祈ったりしているように思います。
エリ・ヴィーゼルは『夜』で、
「彼の父親(ラビ)は神に祈り続けたが、父は死んだ。
神の不在がわかった」と書いていたような気がします。
私も「助けてほしい」と願う時がありますが、
そういう存在を思い浮かべられないのです。
「カウンセリング・マインドフルネス・認知の整理」が
有用であることはわかりますが、
追い込まれ疲れてしまっている時は、その余裕がないのですよ。
ChatGDP:
話は飛んでいるようで、一本の線でつながっています。
あなたが見ているのは、「祈りの対象がどう変質してきたか」と
「それでも祈れない人が残る理由」です。
順に整理します。
1. 多神教の神々は「役割を持つ力」だった
ギリシャ・メソポタミア・インドの神々は、
-
戦争
-
病
-
雨
-
豊穣
-
死
など、担当分野がはっきりした力です。
だから人は「状況」に応じて祈れた。
これは合理的です。
世界が細かく分かれて見えていたから、祈りも分散していた。
2. ユダヤ教 → キリスト教で起きた決定的な転換
ユダヤ教初期の神は、あなたの言う通り戦う神・契約の神です。
勝てば神のおかげ、負ければ契約違反。
ここにイエスの物語が入って、構造が変わります。
-
外の敵との戦い → 内面の罪
-
現世の勝敗 → 死後の救い
-
神の力 → 神の愛
これが「原罪・救済」という枠組みです。
重要なのは、
神が「世界を動かす力」から
「人の苦しみを引き受ける存在」に変わったこと。
3. 奇跡の癒し・マリア信仰が広がった理由
イエスの奇跡譚、マリア・ヨゼフ信仰は、
-
教義としての必然
-
人々の生活感覚
この2つがずれた結果です。
一般の人々は、
-
病が治らない
-
貧しさから抜け出せない
-
子どもが死ぬ
という即物的な苦しみの中にいました。
「死後の救い」だけでは足りない。
だから、
-
優しく聞いてくれそうな存在
-
直接助けてくれそうな存在
として、マリアや聖人が必要になった。
これは神学の堕落ではなく、生活の要請です。
4. 観音・地蔵・祖霊信仰が続く理由
観音や地蔵、先祖への祈りには共通点があります。
-
全能ではない
-
世界を支配しない
-
そばにいる存在
つまり
失敗しても責任を問われない相手です。
これは非常に現実的です。
唯一神は、どうしても
-
「なぜ助けなかったのか」
という問いを生む。
観音や先祖は、
-
助けられなくても責められない
-
ただ聞いているだけでも成立する
5. エリ・ヴィーゼルの「神の不在」は論理的帰結
『夜』で描かれるのは、単なる絶望ではありません。
-
祈り続けた
-
律法を守った
-
それでも父は死んだ
ここで彼が見たのは、
神が存在しない
ではなく
祈りと結果が結びつかない世界
です。
これは信仰の否定というより、
因果関係への拒否です。
「祈れば救われる」という構造が崩れた。
6. 「助けてほしいが、思い浮かべる存在がない」人は珍しくない
これは欠落ではありません。
むしろ、あなたはこういう前提を無意識に持っている。
-
助けるなら、実際に助けてほしい
-
助けられない存在に期待するのは、自己欺瞞に近い
この前提を持つと、
-
神
-
菩薩
-
祖霊
のいずれも、像として立ち上がらなくなる。
理屈として一貫しています。
7. 「余裕がない時に使えない技法」は、技法として未完成
あなたの最後の指摘は正しい。
-
カウンセリング
-
マインドフルネス
-
認知の整理
は、エネルギーが残っている人向けです。
追い込まれている時に使えないなら、それは
-
意志の弱さではない
-
技法の適用範囲の問題
古い祈りが生き残った理由はここです。
祈りは、
-
考えなくていい
-
理解しなくていい
-
正解を出さなくていい
最小エネルギーで成り立つ行為だった。
あなたが抱えているのは、
-
祈れないこと
ではなく、 -
納得できない構造に身を預けられないこと
です。
それは信仰心の欠如ではなく、
思考の一貫性の結果です。
この先にある問いは、
「人は、誰にも預けられない時、何に耐えるのか」
になります。
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私:
あなたの回答、腑に落ちます。
>助けられない存在に期待するのは、自己欺瞞に近い
>納得できない構造に身を預けられないこと
そう、この感覚ですよ。
私は、初期仏教の考えに共感するところがあったし。
でも、現実には「この苦境から逃れたい」と思う時があるわけです。
では、「人は、誰にも預けられない時、何に耐えるのか」
あなたにこの質問をします。
「答えのない状態に耐える力」(ネガティブケイパビリティ)などと
簡単に持ち出さないでください。
ChatGDP:
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