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さんから お借りしました。
・夜明け前の琵琶湖
・湖西道路から見下ろす緑と琵琶湖
・琵琶湖と夕日
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・滋賀県長浜市 夕涼みの琵琶湖 水鳥公園
・秋が来そうでまだ来ない琵琶湖
・湖北を飛ぶ 水鳥公園
・琵琶湖で見たしし座流星群の流れ星
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ウイキにある、琵琶湖を利用した運搬の歴史が面白い。
利権(=お金を稼ぐ)をめぐって、イザコザや争いがある。
以下は、ウイキから一部転載。
・弥生前期から中期にかけての湖底遺跡からは、土器・木器・石器・炭化米や環濠などが発見されており、灌漑・排水が比較的容易であり漁撈の便もよい琵琶湖畔において、初期の稲作が多く営まれていたと推測できる。
・平安時代から三津浜と呼ばれた比叡山の外港坂本は、中世には大津を凌駕するかたちで栄えるようになり、京都への物資運搬を担う馬借・車借が室町時代以降大きな力を持っていくことにも繋がった。
中世には荘園領主により港が管理されるようになり、年貢などの貢献物の輸送も湖上輸送も増え、琵琶湖は経済的に利用されるようになる。
堅田は中世をとおして湖上交通において中心的な役割を果たし、船の検問などを行い湖上の安全を保証する見返りに金品を求めることのできる上乗権(うわのりけん)と呼ばれる特権を室町時代に与えられた。
湖上には坂本を中心に複数の関も設けられ、関銭は山寺の造営などに用いられた。
戦国時代に入ると、従来の比叡山延暦寺に加え戦国大名の浅井氏が菅浦・大浦・沖島、六角氏が堅田の船を支配下に置くなど、各浦の船の掌握を図るようになった。
豊臣政権下では、京都から大阪へと物資の流れが変わり、それに伴い湖上交通の拠点も堅田や坂本から大津に移ることになる。
秀吉は、湊への着岸順に荷物を積み出すことができるとする艫折廻船(ともおりかいせん)という制度により、堅田の湖上特権を否定した平等な流通システムの創設もおこなった。
豊臣政権下で築かれたこれらの体制は徳川政権下でも踏襲されることとなる。
大津を拠点とする観音寺が貞享2年(1685年)に船奉行職を罷免され、以降京都や四日市を拠点とする幕府の官僚的代官が船奉行を務めることとなったことには、幕府にとって琵琶湖水運の地位が低下したことが表れている。
もっとも船数は大幅には減少せず、江戸時代中期の享保年間には5740艘もの船が琵琶湖を行き来していたとされる。
江戸時代には幕府のほか、彦根藩も独自の船支配をおこなっていた。
彦根では古代以来、朝妻が東西航路の起点であったが、元和年間に松原・米原・長浜の彦根三湊が水運の中核として取って代わった。
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2 件のコメント:
日付を逆さまから見ています
流星群まで見ました
癒しを有難うございます
続きもまた来て楽しませていただきます
返信不要です(*^^*)
京さんへ ありがとう (^^)
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