2015~2018年、いろいろな仏教のサイトと本。
そして、瞑想の本を次々に読みました。
仏教を理解して、瞑想を実践すれば、
痛みを少しでも軽くできるか? と思ったからです。
『法句経』『スッタニパータ』に始まって、
禅宗や大乗仏教へ。瞑想のCDや本も。
ティク・ナット・ハン師の本は5冊も読んで
メモ帳に打ち込んだりもしたのですが、
今はもうそのメモは残っていません。本も結局処分しました。
結局、仏教は理解できず、瞑想も身につきませんでした。
唯一、メモ帳に残っていたのが、
トゥルク・トンドゥップさんの本からの転載メモ(2016年)です。
私にもなんとなくわかる気がした印象的な部分だけをメモ帳に打ち込みました。
以下は、そのメモの再録です。
今も理解できない部分、実行できない部分があるのですが、
たまに読み返したくなったのでブログに残しておきます。
・トゥルク・トンドゥップ(Tulku Thondup)
1939年チベット生まれ
原著は
The Healing Power of Mind: Simple Meditation Exercises for Health, Well-Being & Enlightenment Hardcover – August 20, 1996
*序文
・・・・インドへのチベット難民は約十万人を数えたが、
その多くが食べ物、水、気候、高度の変化のために死んでいった。
生き残った者たちにも、
チベットに残した愛する者たちの苦しい生活が、
日夜ちらつく毎日だった。
そういう暗い日々にあって、
わたしを導き、慰めとなってくれたのは、
心の中にはぐくんだ仏教の智慧の光だった。
もしも問題解決が可能で、
しかも、そのために努力することが有意義なら、
平和な落ち着いた心と開かれた態度、
そして喜びに満ちた姿勢で、
解決のために、じぶんの生活を捧げようとした。
もしも解けない問題であれば、
やっきになって燃えつきてしまったり、
時間を無駄にし、エネルギーを浪費しないようにした。
どちらの場合も、感情や頭の中の固定観念に執着したり、
その上に長く居座ったり、気にしたりせず、
ただ、流れていくにまかせた。
そんなことをしても、状況は悪くなるだけである。
シャンティディーバはこう言っている。
「問題を解くことができるなら、心配する必要はどこにあろうか。
解くことができないなら、心配することになんの意味があろうか」
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*第一章 治療の土台
癒しの道
P43:
我執をゆるめ、リラックスしたいと思うなら、
あまり一生懸命になりすぎるのはよくない。
簡単な方法を取るのがいい。
進歩したら、どれほど小さくても
その一歩を喜ぶことが、とても大事だ。
そうすれば、その一歩は力強いものになる。
じぶんにできることを評価しなさい。
できないことについて、思い悩むのはやめなさい。
・・・・・じぶんを観察し、
どんな道を進んだらいいか、知恵をはたらかせなさい。
先入観を捨て、開かれた態度をもって対しなさい。
・・・・最良のガイドは、じぶん自身の中にある智慧である。
瞑想の方法にとらわれたり、しばられてはならない。逆だ。
人生のすべてーー
考えること、感じること、日常的な活動や体験ーーは
癒しの方法になり得る。
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*第二章
世間の中でいかにして生きるか
P49:
完全にマイナスであるように見える問題に対して、
実際的な態度をとることは可能だ。
ストレスに満ちた状況にあるとき、
そのことを認識し、そして和解するのである。
「確かに状況は悪い。でも、大丈夫」というわけだ。
困難な状況に対して、ヒステリーを起こしたり、
マイナスの見方の連鎖を紡ぐことがなければ、衝撃は力を失う。
なぜなら、人生のどんなものごとであれ、無常だからだ。
困難も例外ではない。遅かれ早かれ変化する。
そのことを知っていれば、
癒しの次の段階に、静かに進むことができる。
P50:
仏教の見解によれば、感情は、
究極的にはよいものでもなければ、悪いものでもない。
どんな感情であれ、それを受け入れ、
また歓迎するべきなのである。
愛着、執着、混乱、怒りに対して、
まだ十分な抵抗力がなければ、
「何をしたいか」ではなく、
「何をするのが正しいのか」を考えたほうがよい。
癒しの道を進むとともに、そうやって、
正しい意思を育てていく必要がある。
心が感情を導くようにするのである。
ーーー
人生にとって、何が大切か
P51~52:
食べ物、服、家、健康、世話、教育は、
貴重な人間としての生活を保つうえで、必要なものだ。
人間社会に一員としてお互いを尊重し、
また、それぞれの基本的な欲求を尊重し、
他人を益するための社会的な制度を尊重する必要がある。
しかし、それ以外の外的な事物のどれ一つとして、
わたしたちの時間、平和、エネルギー、
そして人生の大いなる贈り物である知恵を
かける価値のあるものはない。 ・・・・・・・
・・・・金もうけをすることが、
それ自体として苦しみの原因になる、というわけではない。
だが、じぶんの人生を、
外的な所有物の過酷な支配に明け渡してしまえば、
平和も喜びも死んでしまう。
同じく貧しい人々も、
生き延びるための戦いの罠にはまっている。
じぶんが手にしているごくわずかなものすらも、
もっと大きな苦痛がやってくるのではないか、
という恐れゆえに、楽しむことができないのである。
P55~56:
わたしは、現代生活のやり方を無視できるとか、
そうすべきだ、と言いたいわけではない。
基本的な欲求を満たすことなしに、
生きていくことはできないし、
実際に、また人々の抱いている一般的な考え方を
尊重していくことは大切なことだ。
だが、ものごとのすべてを視野に入れるように努めるべきだろう。
じぶんたちは誰であり、どこに立っており、
何が本当に価値があるものであり、
どうやって世界の中で生きていったらいいのかを
理解するのは、一番大切なことだ。
P57~58:
難民としての生活を始めたばかりのころ起こった、
ある出来事は、わたしに強い印象を残している。
わたしは、数人の友人とともに、
インドのヒマラヤ丘陵地帯の美しい町、カリンポンに到着した。
丘陵の頂上の墓地の近くで、
わたしはたちは休み、お茶を飲もうとしていた。
疲労し、空腹で・・・・・
わたしは、煮炊きをするために、石と薪を探しにいった。
丘の裏側に行ってみると、一人の年老いた僧侶がいた。
大きな顔と、小さくきらきら輝く目をしていて、
七十代の後半か八十代の始めぐらいだった。
丸顔と高い頬骨から、モンゴルから来たラマだろうとわたしは思った。
その僧侶は、古びた家の裏手の小さな部屋に座り、
扉と窓を大きく開け放していた。
部屋の大きさはと言えば、8フィート(2.4m)四方ぐらいだったろうか。
その小部屋で、彼は瞑想し、経文を読み、
料理し、眠り、ほかの人々と話し、
一日中同じベッドで、結跏趺坐で坐っていた。
壁の棚には、いくつかの法具と経典が載せられた、
小さな祭壇がしつらえていた。
ベッドのそばには、とても小さな食事用のテーブルがあり、
また、彼はそれを勉強のための机にも使っていた。
そのテーブルの近くには、小さな石炭ストーブがあって、
その上で、じぶんのために簡単な料理をしていたのである。・・・・・・・
彼の顔はやさしげな、
そして、喜びに満ちた笑いに弾けた。・・・・・・・・・
すると、心を安らがせるような声で彼は言った。
「あまり食べ物はたくさんないけれども、
今、食事を作ろうとしているところだ。
いっしょにきて食わんかね。」
わたしは「ありがとうございます。でも遠慮します」と答えた。
友達が待っていたからである。
そうすると彼はこう言った。
「では、しばらく待ちなさい。
料理が終わったら、わたしのストーブを持っていったらよい。
お茶を淹れるくらいの石炭はまだ十分にあるよ」
私は自分が目にしているものに、驚き呆れていた。
僧侶はとても年を取っており、
自分の生活をするだけでも大変なように見えた。
にもかかわらず、その小さな目は慈悲に満ちており、
優雅で威厳に満ちた姿は、喜びにあふれていた。
開かれた心は、
人と分かち合いたいという気持ちに満ち、
心は平和なものだった。
はじめて会ったにもかかわらず、
まるで古くからの友人のように、わたしに話しかけていた。
身を震わすような幸福と、
平和と、喜びと、驚異の感覚が、わたしの全身を貫いた。
その僧侶は、心のありようにおいて、
そして、精神的な強さによって、
世界でもっとも幸福な人間の一人として輝くように存在していた。
しかし、物質的な世界の見方からすれば、
家もなく、仕事もなく、望みもない存在だったのである。
貯金もなく、収入もなく、
家族からの援助もなく、社会的に得るものもなく、
政府からの援助もなく、国もなく、未来もなかった。
それにもまして、外国に逃げた難民であったにすぎず、
地元の人々と話しをすることもほとんどできなかった。
今日ですら、あの僧侶のことを思い出すと、
そのありようを思っては驚異の念に頭を振り、
心の底から祝福の感情があふれてくるのを止めることができない。
もう一つ付け加えておきたいのだが、
その僧侶だけがそういう性質をもった唯一の人格、
というわけではないのである。
素朴で、しかも偉大な存在というのは、たくさんいる。
(今読み返し、このエピソードを意地悪く想像すると、 何も持っていない孤独な老僧が、自分と同じ境遇の若い著者に心を開き、分かち合おうとした・・・とも言えそうだ。)
ーーー
P61:
・・・・祈りを世俗的に考えるならば、
幸せで喜びに満ちた感情を、
じぶん自身の言葉にすることであるだろう。
それをとくに大声を出して言う必要はない。
こころの中で静かに言うことだってできる。
大乗仏教は問題を変容させ、
自我を融解させることに関心を抱いている。
慈悲は、そのために、
とくに大きな癒しの力をもつ道具だと考えられている。
他者に手を差し伸べようとするとき、
かたくな自我はやわらぎ始める。・・・・・・・・・・・・
他人に配慮し、ただ平和で自然にリラックスしているだけで、
日常的な活動や仕事ーー呼吸ですらもーーは、
癒しの修行の一部となり得る。
また自然な形で強さが生まれてくる。
心を開きさえすれば、日常生活は癒しの生活になる。
そうすれば、形式どおりの瞑想をしたりしなくても、
人生そのものが行動の中の瞑想となる。
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第六章 肉体の病に、どう対処するか
P139~142:
仏教徒であろうがなかろうが、
病気は駆け足で生きる人生の速度を落とし、
執着を解き放ち、苦しみのさなかにありながら、
人生の素晴らしさを評価する機会を、与えてくれる。・・・・・・
インフルエンザのウイルスが
じぶんを選んだなどと考えないことだ。
病気の人は 多いのである。
そのことを思い出して、
じぶんの苦しみをもっと広い視野の中に置きなおし、
じぶんが属す人間家族の全体に対する慈悲の気持ちを育てあげなさい。
すべては無常だ。病気も例外ではない。
気分が悪いと、永遠にそれが続くように思うかもしれない。
だが、それもやがてはなくなってしまう。
悪い気分も、結局は消え去っていくのだ
ということを忘れないようにしなさい。
病気のときには、
何か気分がよくなるようなことを見つけ出すようにしなさい。
ベッドに横になって瞑想するか、
心に霊気を吹きこんでくれるような本を読みなさい。
あまりに気分が悪いときには、
素朴な感謝をもって窓の外を眺め、
部屋の光の配置を見、
外の活動の音に耳を傾けなさい。
喘息のような症状でみじめな気持ちになっているときには、
次の瞬間、もっとひどいことが起こったり、
痛みが悪化すると考えないようにしたほうがいい。
身体の中に静かにとどまり、
できるだけリラックスし、
ただ、その感覚といっしょにいればいい。
病室で過ごさなければならないなら、
気分をよくするために、絵や花といった、
心を慰めるものを置いておけばいい。
できれば、たとえ重い病気でも深刻にならないようにしなさい。
運命と陰鬱が降りそそいできたら、
それこそ冗談を言うためにうってつけの瞬間だろう。
賭け金がとても高いときに、遊び心をもち続けられれば、
その勇気は、じぶん自身にも他人にも、勇気を与える。
最善の治療法を決めるにあたっては、
賢明かつ理性的な方法をとりなさい。
そして、助けになるものであれば、
どんなアプローチに対しても、自由な開かれた態度を取りなさい。
ーーー
P142~143:
病気によって、孤独を感じているときには、
じぶんから外に出なさい。
友人や家族や周囲の人、誰とでもいいから、
関係をむすぶように努力しなさい。
起き上がって、ふたたび世界にくわわりなさい。
それは素晴らしく効果のある薬だ。
起き上がれなかったり、痛みを感じているときには、
電話を取って誰かに話しかけなさい。
できれば、勇気を与える本を読み、
心を新鮮に蘇らせる音楽を聴き、
花や絵の美にながめいり、
窓から降りそそぐ光の美しさに目をやりなさい。
勇気を与えてくれるものを、
何も見ることができなければ、
じぶんの愛する人か物のことを考えて、幸福を感じなさい。
幸福を感じているとき、あなたは、
癒しに向かう道を進んでいるのである。
また、じぶん以外の病気の人のことを考えてもいい。・・・・・・
怒りや恐怖や落胆が生じてきたら、
どれほど強く、また長く続くもののように見えても、
やさしく向かいあいなさい。
激しく荒れ狂う感情すら、忍耐によって、
癒しのエネルギーになり得るからだ。
我慢できないと思うなら、
その気持ちもプラスに考えなさい。
なぜなら、それはよくなりたいという気持ちのあらわれだからだ。
P144~145:
すべての病気を治したり、「直す」ことはできない。
結局のところ、身体は旅の宿のようなものだ。
しばらくそこに住んでいることはできる。
だが、それが終われば、いつかは去っていかなければならない。
わたしたちはみな死ぬのである。
けれど、たとえ、あと数ヶ月、
あるいは数日しか生きられないとしても、
死にいたる末期の病であっても、
それをチャンスだと考えることはできる。
じぶんが死につつあると自覚することは、本当に恵みであり得る。
なぜなら、そういうときには、
完全にじぶん自身のために悲しみ、
身体が健康だったときにはむつかしかったようなやり方で、
じぶんを開くことができるからだ。
愛する者たちを、
どれぐらい大切に思っているか、しゃべることができる。
もつれかえった関係を修復することもできる。
現在じぶんが手にしている小さな瞬間の中に、
価値を見出すことができる。
死そのものもまた深い癒しであり得る。
たとえ死にいたる状況が困難に満ち、
また肉体的な苦痛があったとしても、平和を味わうことはできる。
人生のすべては、執着を解き放つ過程であり得る。
死もまたその例外ではない。
とはいえ、生命を、あまり早々と手放さないように。
じぶんの生命という貴重な贈り物を大切にしなさい。
もしも生きられる可能性があるのなら、
回復は可能だと心に言い聞かせ、そうしようとはっきり決心しなさい。
ついに死の王が身体を支配し、
死の魔に呼ばれたら、行かなければならない。
それがものごとの自然というものだ。
けれども、ときにはちょっと死神をだますことだってできる。
名前を呼ばれたからといって、すぐに返事をしなくてもいい。
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