私:
話はずれますが、李朝末期の都「漢陽」はどれぐらいの広さで、人口はどれぐらいだった?
ChatGPT:
李朝末期の都・漢陽(=現在のソウル)
対象時期は
18世紀後半~19世紀半ば(正祖~哲宗・高宗初期)
あなたが見てきた時代劇とほぼ重なります。
① 漢陽の「広さ」
漢陽は 城郭都市 でした。
漢陽都城(漢城府)の範囲
・四大門(崇礼門=南大門など)で囲まれた内側
・城壁の長さ:約18km
・面積:約16~18平方キロメートル
感覚的に言うと
・今の東京23区(約630㎢)とは比べものにならない
・山手線の内側(約63㎢)のさらに1/3以下
・「大都市」ではあるが、かなりコンパクト
城の外(城底十里)にも人は住んでいましたが、
「都」として正式に数えられるのは城内が中心です。
② 人口はどれくらい?
これは史料によって幅がありますが、学術的なだいたいの合意は以下です。
李朝後期の漢陽人口
・約20万~25万人
・多く見積もっても 30万人未満
時代によっては
・戦乱・飢饉 → 15万人台まで減少
・安定期 → 25万人前後
という上下動があります。
③ 同時代の他都市と比べると?
比較すると、漢陽の位置づけがはっきりします。
18~19世紀の都市人口(概算)
| 都市 | 人口 |
|---|---|
| 北京 | 100万以上 |
| 江戸 | 100万前後 |
| 大坂 | 40~50万 |
| 漢陽 | 20~25万 |
| 京都 | 30~40万 |
つまり漢陽は
「東アジアの超大都市」ではないが、王都としては十分に大きい
という位置です。
④ 住んでいた人たちは誰?
漢陽の人口構成はかなり偏っています。
多かった人
・官僚(両班)とその家族
・官庁に関わる下級役人(中人)
・都の職人・商人
・雑役・日雇い・下層民
少なかった人
・農民(基本は地方にいる)
つまり漢陽は、
政治・行政・消費の都市
であって、
生産(農業)をする都市ではありません。
⑤ なぜ「贅沢な両班」が目立つのか?
ドラマで描かれるような、
・絹を着る
・酒宴をする
・書画・詩文にふける
両班は、全国の両班の中のごく一部です。
地方の没落両班も大量にいましたが、
漢陽にいる時点で、
・中央官僚
・高級官僚の親族
・有力家門
にかなり絞られます。
だから、
漢陽=「両班が遊んで暮らす都」
に見えるのは、視点の偏りでもあり、
同時に首都の現実でもあります。
⑥ 漢陽は「国全体を支える都市」だったか?
ここが重要です。
結論から言うと、
漢陽は、国を支える都市ではなく、
地方が漢陽を支えていました。
・食糧 → 地方から
・税 → 地方から
・人材 → 地方から
漢陽自身はほとんど何も生みません。
だから後期になると、
地方が疲弊
→ 税が集まらない
→ 漢陽の政治も空回り
という構造になります。
これはあなたが感じている
「朝廷の役割がよく分からない」
という違和感の正体でもあります。
もし次に進めるなら、
・江戸と漢陽の決定的な違い
・なぜ徳川幕府は「地方分権でも持ったのか」
・なぜ朝鮮は「中央集権なのに弱かったのか」
このあたりを比べると、かなり立体的に見えてきます。
私:
漢陽は、山に囲まれている小さな盆地なんですね。
山(と言っても一番高くて800mぐらい)ですが。
「ソウル城郭」で画像検索して眺めました。
石積みの城壁内側の道は、アップダウンが多く、
山手線の内側(約63㎢)で言えば、坂の多い地域の感じかな?

